可愛いのはあなた 上


 

「珍しい事もあるものだな」
 デスクに着き、溜まった事務処理を黙々とこなしていた彼が、ふいに呟いた。
同じく領収書の振り分けに没頭していたぼくが顔を上げると、バンコランの目線は変わらず机上の書類にある。一人言だったのかなと、返事をためらっていると、
「今日は何の事件も面倒事も起こらなかった」
と、彼は言葉を次いだ。
 
 確かに、朝一番の厄介と思われた会議はすんなり終わったし、CIAからもFBIからも電話はかからず、部長は休みでパタリロも姿を現さなかった。おかげで昼過ぎには予定されていた打ち合わせや会見を終え、今はこうして、手つかずのままバンコランのデスクに積み上げられていた書類や領収証の処理が出来ている。
 こんなこと、ぼくが彼のアシスタントをするようになって初めてかも知れない。いいや、きっと初めてだ。
 
「朝のあれで厄介払いが出来たんだ。当分良いことが続くよ」
 冗談半分に返したぼくに、
「ああ、そう言えば車はどうなった」
と、バンコランが問う。
 今まですっかり忘れていたんだろうか。
今朝起こったハプニングの結末を、今になってようやく思い出して知りたがる彼の暢気さが、何だか可愛らしかった。
 
 いつも通りの朝だった。
 二人で部屋を出て、ガレージに駐めてある彼の愛車に乗り込み、本部へ向かおうとする。と、エンジンがかからない。昨夜車に乗って帰宅したときには、特に異常は認められなかった。今、乗り込むときにも、誰かが何か細工した形跡がないことを確かめたのに。
 幾度も試してみたけれど、どうにもエンジンはかからない。
 バッテリーが上がってしまったのだろうか、そういえばそろそろ車両点検の時期だとディーラーから通知が来ていたな、とバンコランは呟いた。
 とにかく、このままでは埒があかない。車両保険のロードサービスでも呼ぼうかという話になったけれど、バンコランには朝一番で会議の予定があった。遅れるわけにはいかない。丁度そこへタイミング良く空車のタクシーが通りかかったので、彼はそれに乗って本部へ向かい、ぼくは車に残って保険会社へ連絡を入れたのだ。
 
「結局、バッテリーだったんだけど交換しないとダメだっていうから、ディーラーを呼んで、修理とついでに点検を頼んだよ」
「そうか。代車は置いていったのか?」
「ううん。朝早かったしあいにく丁度良いのが出払ってるって言われた。だからぼく、歩いて来ちゃった。その代わり特急で仕上げてくれるって。明日の夕方には戻ってくるんじゃないかな」
 帰りの足が無いことを告げたぼくに、バンコランは、わかったと頷いて、デスクの時計に目をやった。つられてぼくもそっちを見たけれど、ここからの角度では文字盤は読めない。
「よし、今日はここまでだ」
 手にしていたペンを書類の上にポンと投げ置いて、彼が言った。きっと、(普段はあってないに等しいものだけれど)定時になったのだろう。バンコランがデスクに座って三時間弱が経ったことになる。根が真面目な彼らしく大人しくやっていたけれど、本来は現場に立って体を動かすことのほうが性に合っている人なので、それなりに苦痛だった様だ。せいせいした、とでも言うように、新しい葉巻に火を付けて深々と煙を吸い込んでいる。
「お疲れ様」
 処理の終わった領収書を経理へ持って行けるようにクリップで留めながら、彼の座るデスクへ向かう。さすがに目が疲れたのだろう。蒼い瞳がいつもより曇って見える。
「コーヒー、煎れてこようか?」
 問うたぼくに、バンコランは要らないと首を振った。
「折角早くあがれたんだ。食事にでも行こう」
「うれしい!じゃあこれ、急いで出してくるね」
 久々のデートを誘う彼の言葉と、優しい微笑が嬉しくて、ぼくは小走りに経理の女性の居る事務室へ向かった。厄介ごとが舞い込む前に、本部を出てしまわなくては。
 
 
 色調を抑えたストライプのテーブルクロスに、真っ白だけれど個性を感じさせる皿。シンプルで手になじむカトラリー。テーブルにしつらえられたものの一つ一つが、ぼくの視覚や触覚を心地よく刺激する。どれもが可愛らしい。
食前酒のシェリーも、ショートパスタのサラダの前菜も、美味しかった。これでメインのムニエルとデザートのケーキが美味しければ、ぼく的には満点だと言っていい。
 目当てだったいきつけの店が臨時休業だったので、同じ通りに新しくできていたこのレストランに入ろうと言い出したのは、バンコランだった。シンプルで上品な内装が気に入ったのだろう。ワインも、彼好みの渋めの赤が手頃な値段でリストに載っていたし、コニャックやブランデーの種類も多かった。ステーキに及第点が着けば、彼はきっとまたこの店に連れてきてくれるだろう。
 メイン料理を待つ間にワインを楽しみながら、ぼくはそんなことを考えた。
 数字ばかりを何時間も見続けたからだろうか。何だか思考がいつもより緩やかだ。バンコランもそうなのかも知れない。普段より随分口数が少ない。
 そこまで思い至って、急に彼の声が聞きたくなった。
「ねえ、見て」
「何だ?」
 突然かけたぼくの声に驚いたのか、ワインをゆっくり味わうようにグラスに注がれていた彼の視線が跳ね上がってぼくを射る。瞳の蒼さは、もう戻っている。
「このカトラリーレスト、犬の形をしてるよ。可愛いね」
 この席に案内されて一番最初に気付いたこの店の可愛さ。
 ナイフやフォーク、スプーンを背中に乗せて支える、銀色の健気なダックスフント。バンコランの目には止まらなかったのだろう。そんな形をしていたのか、と彼は自分の手元に目をやった。
「わたしのは、猫のようだな」
「え? 本当に?」
 少しお行儀が悪いけれど、椅子から腰を浮かせて伸び上がり、彼のカトラリーレストをさがす。この店は少しテーブルが大きい。
「あ、本当だ、猫も可愛い」
 ぼくの手元のものとは違って、耳が尖って立っているし、しっぽも長い。顔は見えないけれど、このシルエットは確かに猫だ。
「すごいね。いろんな種類があるのかなあ」
「さあな」
「他のテーブルも覗きに行きたくなっちゃう」
「やめておけ」
 まさか、ぼくが実行するとでも思ったのだろうか。バンコランが苦笑混じりに窘める。それが面白くて、弁解はせず、
「はあい」
と大人しく答えた。グラスに手を伸ばし、白ワインを一口含む。
「あ」
「今度は何だ」
 また苦笑の混じった声で彼が問うてくれる。食事も大人しく出来ない厄介な奴だと思われたらどうしようと思ったけれど、彼の表情に滲む優しさが嬉しいし、もっと声が聞きたい。仕事を終えて、二人きりで、お酒の入ったときの、僅かに甘い声が。
「このグラスね」
「グラス?」
 ぼくに注がれていた視線が、彼の手元のグラスへ移る。欲張りなぼくはそれさえも惜しい。
「うん。このワイングラス、ここに細くカットが入ってる。見てるだけじゃ気付かなかったよ」
「ああ」
 お互いが手にしたワイングラスの脚、ステムと、本体であるボウルのちょうど境目。細いステムがふわりとふくらんでボウルになる様なイメージの二本一対の曲線が、カットで記されている。極めて浅く細い繊細なカットなので、最初にグラスを手にしたときには、ぼくは気付かなかった。バンコランはぼくより多くグラスを手にしているからだろうか、手袋をしているのにとうに気付いていた様だった。
「綺麗だね。ラインが二本セットになって捻れて広がって。流れてるみたいだ」
「ワインの味は変わらんがな」
 グラスをテーブルのキャンドルにかざして光の反射を楽しんでいたぼくに、彼は素っ気なく言った。こういう所が、彼は軍人的だ。きっとぼくのことを、子供だなって思ってる。でも、男の子は綺麗な方が好きなんでしょ、と言い返すのは心の中だけにしておいた。
 
 ほどなく運ばれてきたステーキはバンコランの口に合ったようで、
「またこようね」
と、店を出て言ったぼくに、
「そうだな」
と頷いて手をつないでくれた。
 
 
 レストランからマンションまでは、歩いて20分程度の距離だ。
 タクシーを拾うか、と言ったバンコランにぼくは歩いて帰らないかと提案した。
「ちょっとだけデートしようよ。折角早くお仕事が終わったんだし」
「デートも何も、同じ家に帰るんだろうが」
 ほらまた。おかしなことを言い出す奴だって顔をする。
「それはそうなんだけど。でも、こうやってあなたと街中を歩くのが嬉しいんだよ」
「おかしな奴だ」
 やっぱり言われた。
「いいでしょう?」
 そう言いつつつないだ手を揺すると、彼は少し目を細めてから頷いてくれた。

 

 

 

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